私の税理士50年

      これは、東海税理士会刈谷支部で、私が税理士として50年になったことをお祝いして下さったときの御礼のご挨拶として話をしたものの原稿です

  コロナ型ウイルス感染予防のため、新年慶祝行事が取りやめになり、支部総会もごく少数の参加によって開催、という事態になりました。そこで用意をしていたこの原稿をパワーポイントを使って発表する機会がなくなりました。それでもこの原稿を作ったおかげで、私自身にとって自分の50年間の税理士生活を振り返るチャンスとなり、振り返ることができました。そこで、せっかく作ったこの「私の税理士50年」をここにアップして、もしも気が向かれたら見て頂くように、としました。どうぞご笑覧下さい。

 以下がその本文です。                                                                                                                                                                         2021.5.24補正

 今日は私が税理士としての仕事をしてきて50年ということで『感謝状」をいただきありがとうございます。感謝をされるほどのことはありませんので、長くやってきたということのお褒めの言葉と受け止めています。
 せっかくですので私のこの50年を振り返って、お礼のご挨拶としたいと思います。
 また、本日は森田英二先生も50年になるということで一緒にお祝いをしていただきありがとうございます。
 本当はそれぞれがご挨拶をするべきですが、時節柄ということでしょうか、私が二人分を、併せてお礼を申し上げます。
 年の順でいいますと一回り、森田先生が上でありますが、とにかく登録は私が先ということで、代表をしてご挨拶申し上げます。
 また、自分のことだけをお話することになりますがご容赦ください。
 本当に感謝の50年ですが、こうして記録にしてみますと何となく自慢のような部分が表に出てしまい、あるいは皆さんにご不快な思いをさせてしまうかもしれませんが、あくまでも記録ということでお許しいただきたく思います。よろしくお願いします。

1.税理士に

写真:税理士試験合格証書

 私は2代目税理士です。父が開業をした頃は、刈谷税務署はその前進である碧南税務署で、当時の税理士会の碧南部会は少しの会員しかいませんでした。
 私は当時税理士という仕事にはあまり魅力を感じていませんでした。大学時代には税理士という仕事にむしろ反発をしていて、全く勉強をしませんでした。しかし、卒業前に父が病気になり、急遽、自分が跡を継がなくてはという気持ちになりました。
 大学を卒業して岐阜県各務ヶ原市のプラスチック成形加工会社に就職をしました。
大学の先輩に岐阜市内にある税理士試験受験のための塾を教えていただき、会社の仕事が終わったあとで通って勉強をしました。
 2科目ずつ合格をして4科目合格をしたときに退職、父の税理士事務所に入所しました。
 父の事務所で働きながら、夕方は愛知大学の夜間講座に通って税理士の勉強をしました。
 このときの先生が御所園輝雄先生です。そして翌年に2科目合格をして税理士になりました。

2.青年税理士クラブ

 税理士になってすぐに、刈谷部会の副部会長という名目で会計を仰せつかりました。
当時は刈谷支部といわないで、刈谷部会と言っていました。そのころは植松唯四郎先生が部会長、永坂武夫先生が副部会長で、新米の私が会計をするように言われました。
みんなのことがわかるようにと、配慮をしていただいた結果です。
 その頃、前田晴彦先生、加藤峰男先生、出口保夫先生らの案内で刈谷西尾青年税理士クラブに入りました。税理士として登録をしたものの実務は全くわからない状態でいろいろのことを教えてもらうことができて本当に良かったです。困ったときに相談に乗ってもらえたし芸者さんというものも覚えました。その頃一緒に青税に入会をしたのは森田英治先生、そしてすぐ後に入会をしたのが加藤哲也先生です。
この二人には、以来いろいろお世話になりました。
 私が青年税理士クラブの代表を務めたときに全国青税に参加をしました。西尾の高須皇至君と二人で横浜の全国大会に参加をしました。その後、刈谷西尾青年税理士クラブとして正式に全国青税に加盟し、鹿児島・青森・神戸など各地の青税大会に参加をし、多くの友人を得ました。刈谷支部からも沢山のメンバーが参加をしました。
 蒲郡で全国青税の研修会を開き、刈谷西尾の若い税理士がみんなで協力をしたので、大いに盛り上がり、「事実上の大会だね。」との評価をいただきました。

写真:全国青税
写真:青年税理士クラブ

 その後、税理士法改正問題がおこり、東京までデモに行ったり制度問題も真剣に取り組みました。刈谷西尾青税はそれなりに全国にも認められましたが、残念ながらその後に全国青税から脱退をしてしまいました。
 青税で知り合ったメンバーは沢山あり、その後の私の日税連での活動にとても役だったと思います。

3.刈谷支部・東海会税理士会

写真:定期総会

 入会直後に刈谷部会の副部会長をしていましたが、その後も若いから使いやすかったと思います。引き続き支部の中でいろいろな仕事を仰せつかりました。
 父に言われていましたし、また青税などの皆さんにお世話になっているので支部の行事にはできるだけ参加をしてきました。支部の親睦旅行などは欠かさずに参加をしてきました。
それが私にとってとても良い人脈を作る基礎になっています。
 その後、当時まだ47歳だった時に、森田英治先生、大見典夫先生のあととして、刈谷支部長を命じられました。まだ若かったし戸惑いがありました。しかし皆さんが支えてくださって無事つとめることができました。

「速報税理」という雑誌を購読している方も多いと思いますが、ここに「我らが研究会仲間」というコーナーがありました。
ここにこちらから申し入れて、刈谷支部税務研究委員会を取材してもらいました。税務研究委員会は、みんなが税務調査などで困った事例を持ち寄って意見を交わして、どうすれば税務署の主張に対抗できるか、と考えあいました。
会員から沢山の具体的な事例が出され、研究成果は税務研究録として冊子にまとめました。
この税務研究録は、その後の竹下豊支部長、小林逸朗支部長などにも引き継がれ、小野内宣行先生の『税務広報』掲載記事や『速報税理』の記事、税務救済手続きの具体的説明など多岐にわたって紹介をしたりして続けられました。

写真:速報税理
写真:速報税理
写真:税務研究録

 また、支部例会など支部行事の案内に「税理士会の会合には税理士バッチを佩用しましょう。」という文言を必ず入れるようにしました。
 当時各地の税務相談に行く場合、派遣先によって派遣された税理士の受け取る税務援助の謝金に違いがありました。税理士として同じ資格を持った者がゆくのに謝金が違うのはおかしい、と思いました。支部理事会で協議をして、支部会費で補填をして、最も高い金額に調整をすることにしました。
 支部長になる前に、東海税理士会の理事を1期していましたが、支部長を終わって、もう一度本会理事になったときに、新設の研修部長をやるようにいわれました。不安はありましたがお引き受けをしました。
 研修部は新設でしたので各支部では専門の研修部員を置いていなくて、まさに寄せ集めでした。先ずは会員のみんなが研修に参加できるようにしよう、ということで研修を各地でやろう、と考えました。下田の会員は旅費と時間をかけて沼津まで研修受講に行くのだから、沼津の会員だって下田に行けばいい、というのが発想の始まりです。そこで研修を、伊賀上野でやったり熱海でやったりいろいろ考えました。研修をみんなが受けられるようにしよう、というのが発想の元で研修部のみんなも賛同をしてくれたので楽しい活動ができました。

4.東海税理士会副会長

写真:東海税理士会副会長

 研修部長を一期務めた上で、タイミングとして東海税理士会の副会長を受けることになりました。刈谷支部からの東海税理士会の役員は、奥谷有規先生、加藤峰男先生、森田英治先生らの専務理事・常務理事以来の役職ですので、がんばって仕事をしました。
 これまで、会の仕事は、「自分が税理士として食べてゆくのであるから、税理士制度を良くし守ってゆくためにできるだけ協力しよう、お手伝いをしよう。」ということで参加をしてきました。しかし、ここで副会長になったことで積極的に「税理士としての社会的地位の向上と税理士制度の発展強化」という青税当時の考え方、理念を一層強く感じ、推進することの使命を感じることになりました。
 税理士会の会合でも、国税局などでの会合でも遠慮なく発言をしました。会員のためになるのであれば、税理士のためになるのであれば、という基準で発言をしましたので、わかってくださる方は賛同をしてくださいましたが、煙たいと思われた方も多いではないでしょうか。

5.日本税理士会連合会

写真:日本税理士会連合会

 ①平成7年前後に、全国の自治体で不適切な公金の使用が問題になりました。例えばカラ出張、官官接待などです。全国の市民オンブズマンが不正を摘発しました。そこで地方自治法が改正され、地方自治体の監査制度の充実のために外部監査が必要、ということになりました。そこで創設された外部監査人に税理士も加えられました。これは弁護士・公認会計士・精通者、つまり会計検査院のOB、だけでは人員不足という側面もありましたが、税金の使い道を監査するのも税理士の仕事、という税理士会の意見も入れられたと思います。こうして平成10年に日税連に創設された地方公共団体外部監査対策室に東海会から行くように言われました。全くわからない分野でした。5日間、日税連に缶詰になって朝から晩まで研修を受け、夜には補講として実例の紹介を聞きました。久しぶりに一滴の酒も飲まない一週間でした。東海会に帰ってこの研修の結果を東海会の会員に「研修」として伝えたのですが、正直に言いますと自分自身がよくわかっていませんでした。
その結果、話すことをすべてレジュメに書いて発表をしたので、味も素っ気もない研修になったと思います。
その後も外部監査対策室から変わった「公益的業務対策委員」を勤めました。

 ②平成7年に日税連に研修部が創設され、東海会からは森田英治先生がでて見えましたが、その頃に新規登録会員を対象に登録時研修が始まりました。私は平成9年から研修部に出ていましたが、外部監査対策室や公益的業務対策室に出ていました。平成17年に、公益的業務対策委員を終わって、研修部長をやるようにいわれました。当時は研修の義務化ということが議論になっていました。
私は研修の義務化には反対をしています。研修は義務として受けるのではなく、自分の必要に応じて受けるべきであると思っています。ただし、税理士会は研修を受けたい人には受けることができるように機会を充分設けなくてはいけない、という考えです。
そこで税理士会の予算で全会員に受信装置を配り各会員はいつでも事務所で研修を受けられるようにするべきだ、と予算要求をしましたが認められませんでした。これはCS放送を使えば実現できることでしたが残念でした。
しかし、今ではコロナウイルスの影響で会場集合型研修が難しくなり、各事務所で受講できるように変わってきました。私が当時考えたことはネットによる配信ということで、今では当たり前のように行われています。
そこでCSを使った研修に代わる手段として、マルチメディア研修を考えました。
研修を収録しCDにやきつけることにより、いつでもその研修を受講できるようにしました。
ほとんどは講演方式でしたが、一部はシナリオを書いてそれに従ってドラマ仕立てのものも作りました。研修部員を中心にして、一部他の会員も交えました。いろいろ工夫をしましたが、実際には受講者が伸びず、他の手段に代わってゆきました。これも今ではDVD研修として、普通に受講できるようになりました。


6.会長選挙

写真:会長選挙

 税理士会が税務当局にも遠慮なくものが申せるようにすることが税理士の地位を上げ、社会的責任を果たすものだ、と思いましたので、東海税理士会の会長になろうと思いました。
 川松さんが「一期だけやらせてくれ」ということでしたので一期譲ることにしましたら、そのまま2期目を続け、さらに3期目を続ける様子でしたので、我慢ができないで会長選挙に挑みました。しかし、現実に会長を2期務めた現役が相手では大変不利であったことと、時間の制約などで私の主張を充分説明できなかったために残念ながら負けてしまいました。
 会長選挙に当たっては刈谷支部の皆さんが本当に尽力をしてくださり、感謝をしております。時の支部長であった加藤仁康さんを始め歴代支部長などを中心に、愛知・静岡・三重のあちこちをくまなく走り回ってくださいました。改めて感謝をします。ありがとうございました。

7.黄綬褒章

写真:黄綬褒章

 平成19年に、黄綬褒章をいただきました。税理士功労です。先にも述べましたとおり、税務当局にも遠慮なく文句を言ってきましたので全く予想もしないことでした。財務省関係は三田共用会議所というところで当時の額賀財務大臣から勲記と褒章を受け取り、簡単な祝宴がありました。その後、皇居に行き天皇皇后両陛下から「おことば」をいただき、記念写真を撮って財務省に行きました。受賞後は皆さんにいろいろお祝いをしていただきました。刈谷支部でも盛大に祝宴を開いていただきました。ありがとうございました。

8.桜を見る会

写真:桜を見る会
写真:桜を見る会

翌、平成20年に福田内閣総理大臣から「桜を見る会」の案内が来ました。後の安倍総理の時のような問題はなかったと思います。私は当時の福田総理とはそのときに初めて会いました。まわりの皆さんは唯単に会釈をしていましたが、こんなチャンスはない、と思って福田総理に「税理士法改正をお願いします。」と言ったらギョロリと見返されました。さすがに貫禄がありました。新宿御苑はとてもたくさんの種類の桜がありますので、4月終わりに咲く桜もありました。桜の花を入れて写真を撮ろうとして苦労をしました。

9.公益的業務

写真:監査委員

日税連で外部監査対策室を経験したことは先に話しましたが、この外部監査対策室は公益的業務対策委員会に組織変更をしました。これに関係したこともあり、公益的業務をするのは私の使命でもあると思って、機会があればお断りをしないでかかわっています。

監査委員
平成24年に竹下豊先生のあとを継いで碧南市の監査委員になりました。市の財政が適切に執行されているかを監査する仕事です。当初2年間は、碧南高浜の衛生組合の監査も兼ねていました。
市の監査に当たっては、自分の考えというか市民目線といいますか、自分なりの視点で監査をしました。その結果は時として的外れであったかもしれませんが、保守・革新を問わず皆さんからほめていただいた、と思っています。2019年の9月議会で、「次で退任をする」という挨拶をしたときは皆さんから拍手をいただきました。
各地での会合の時には高浜・知立などの監査委員の皆さんと懇親会を持ちました。各市の監査委員には加藤仁康さん、上野実さん、外園茂さん、坂田郁夫さんなどがみえて、おかげでいろいろな情報を得ることができました。
私の監査のやり方については、愛知県三河Bブロックの研修会や東海税理士会の専門部会で発表をしました。特に東海税理士会での発表は、少し慣れたということもあり、うまくできたのでとても好評でした。

成年後見人

 お客さんに頼まれて、成年後見人になりました。ある会社がM&Aにあうときに裁判所に申し立てたことから、私がある人の法定成年後見人になりました。成年後見人の仕事はその被後見人が亡くなったので終わりましたが、その後遺族の皆さんのご了解で、遺産分割の完了から相続税の申告までおつきあいをさせていただきました。別の例ではお客さんに頼まれて、任意成年後見契約をしました。その後、事理弁識能力が衰えたので裁判所に申し立てて後見契約を発動しました。任意後見ですので任意後見監督人が必要です。大見孝先生が適任だ、と推薦をして裁判所に認めてもらいました。

登録政治資金監査人

「税理士による大村秀章後援会」の登録政治資金監査人をしました。ほとんど何もありませんでしたので、簡単にチェックをして終わりでした。

選挙管理委員と寄付口座

写真:選挙管理委員
写真:臨時講師

 なお、これは税理士としての公益的業務ではありませんが、碧南市の選挙管理委員も2期8年務めました。また、出身大学である滋賀大学で臨時講師の資格をもらって学生を相手に「税理士になりましょう。」という講義もしました。これは学生にとっては単位が取れるので受講者も沢山いました。採点も甘くしておいたように思います。

10.最後に

 この50年の間にはお客さんの会社が倒産をするなどつらい場面も沢山経験をしてきました。
弁護士さんと協力をして財産整理をしたこともあります。相続人の間で遺産分割がもめて困ったこともあります。刑事事件の被告人の税務申告を作ったこともあります。何時の場合もそれぞれの皆さんの立場を考えて誠心誠意かかわってきましたので、最終的には皆さんに喜んでいただいていると思います。
こうして50年を振り返ってみますと、本当に早いものだと思います。その間、終始一貫していることは自分は税理士であるという気概です。
税理士の社会的地位の向上と税理士制度の発展強化、というのは青税当時からの一貫した考え方です。多くの先輩方から「税理士は互いに仲良くしよう!互いに助け合おう!そして税理士制度が本当に国民のためになる制度になるように、手を取り合おう!」
ということを教えてもらってきました。
そして今もつくづく思うことは「税理士になって良かった」ということです。
どうか皆さんも、税理士になって良かった!と思うことができる人生を歩んでください。
今日はありがとうございました。